- 己斐の俵もみ
(原爆投下2ヶ月後の動画記録)
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- 2005年3月19日に、広島学院中高等学校の中学時代に地理を教わった丸山博司先生に、広島学院10期生の同窓会メーリングリスト(基本的には、10期の同窓生がメンバーのメーリングリストなのだが、元気のよい恩師も数名登録され、受発信をしておられる)を介して、私は次のようなメール(QUOTE01〜ENDQUOTE01=青色印字)を送った。Subject
は、「己斐の俵もみ 19451019」だった。
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(QUOTE01〜ENDQUOTE01)
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- 本日、本田哲郎先生著の『「平和アピール」(教皇ヨハネ・パウロ二世)を読む』(カトリック広島司教区発行)が先生から届きました。深く感謝申し上げます。
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- ぱらっとめくると、教皇が来広された1981年2月25日に、私が奇跡的に広島にいたことがすぐ思い出されました。広島が雪の白銀一色に染まった光景を鮮明に覚えています。なぜか、その日は、己斐保育園の入り口のところから、ふじハイツの海抜70mの高台に徒歩で戻ったのです。雪を踏みしめて坂を登りました。その前後の約1年を、私は広島に戻り、父親の税理士事務所の所長代行として過ごしました。父が心筋梗塞で生死の境界をさまよった時、緊急リリーフとして父のそばにいたのです。(そのころ、中野先生にも、税理士事務所で何度かおめにかかりました) その2月25日の当日は、地元の女性編集者との打ち合わせがあり、教皇のご来広式典には足を運べなかったのですが、歴史的なモメントが到来しているんだなあ、という微かな連想は働きました。その編集者が関わっている小さな紙媒体に、私は角川春樹の取材記事を寄稿したのです。日本で3つの有力な句会のひとつと言われていた「河」は、実際には角川春樹さんが当時仕切っておられました。その句会が広島で開催された機会をとらえて、角川春樹に取材しました。クマヒラ(金庫)さんなどが地元ではスポンサーになっていたように思います。クマヒラのお嬢さんが私の妹とノートルダム清心の同級生だったので、ご紹介をいただき、発展した人間関係のひとつが「河」との出会いだったかもしれません。
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- http://www.kumahira.co.jp/company/enkaku/e_index.html
- http://www.kadokawaharuki.co.jp/diary/200410/1009-15_01.html
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- 『「平和アピール」(教皇ヨハネ・パウロ二世)を読む』に触発され、さっそくカトリック広島司教区のホームページを訪問し、じっくり拝見しました。感きわまるものがありますね。
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- http://hiroshima.catholic.jp/
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- その延長線上で、
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- http://kids.s24.xrea.com/heiwa/fukkou2/heiwatoshi/
- http://www.rcc-tv.jp/kioku/back/
- http://www.rcc-tv.jp/kioku/back/0410.htm
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- 〜に出会いました。
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- 先生も己斐地区にお住まいになったことがある方ですので、あるいはおりおり目にしておられたかもしれませんが、己斐で少年時代を過ごした私にとって、秋の「俵もみ」の光景は、忘れがたいものです。小学校〜中学校時代の記憶があります。高1からふじハイツに移転しましたので、15〜16才以降は現実の俵もみに遭遇したことはありません。でも、またどこかで拝見したいなあ、という気持ちはいつもありました。そして、今日、1945年10月19日と2004年の10月に撮影されたという「俵もみ」の映像(45年10月は、なお勧進元であるはずの旭山神社自体が倒壊した状態であったにもかかわらず・・)に、思いもかけずふれる機会がありました。たいへん嬉しく思っています。
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- やっとこせええ〜 よ〜いやな
- あれわいせ〜 これわいせええ〜
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- 己斐復興祭として現代に語り継がれているものの一部を構成する重要な映像ではないでしょうか。広島の戦後闇市も、己斐駅前にできたものが、(まとまった規模のものとしては)嚆矢(こうし)であったよし。
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- 『ヒロシマの記憶』というのは、1945年10月に日本映画社の手によって撮影されたフィルムをもとに、ハイビジョン映像として甦ったヒロシマの映像記録なのですね。日本映画社によるヒロシマの記録フィルムは、長期にわたって米軍によるプレスコードによって、たしか封印され続けていたものですね。ついに、それらを拝見できる時代になったということでしょうか。『ヒロシマの記憶』は、RCCテレビ/中国新聞社/NHK広島放送局ほか関係各位の執念を感じさせるものでもあります。
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- 毎週土曜日、午後5:10-5:15に放送されているというこの番組のことを、私は今日初めて知りましたが、貴重な記録ですね。関東ではこの番組をリアルタイムで拝見することはできませんが、丸山先生は、実時間でご覧になることもあるのでしょうか。
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- (ENDQUOTE01)
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- (ここからまた竹本隆記す)
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- すると、同期の藤田一成氏から、翌3月20日に、次のようなコメント(QUOTE02〜ENDQUOTE02=青色印字)をいただいた。彼は、RCC中国放送の優秀な報道ジャーナリストである。Subject
は、「原爆映像について」だった。転載については、ご本人から許諾をいただいています。
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(QUOTE02)
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- ・・・原爆映像のことが触れられてあったので、ついお便りする気になりました。
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- 己斐の祭りの映像の件です。
- 竹本さんが日本映画社が撮影した映像を短くまとめたものを見たということです。目に止まって嬉しいかぎりです。
- RCCでは、昨年夏から毎週1本 「ひろしまの記憶」と題して 日本映画社の撮影した原爆被災3ヵ月後の広島市内の映像と現在の様子をつないで、60年の時を考える・・、をテーマに3分程度のミニ番組を継続して放送しています。これは、実は10年ごしのプロジェクトです。
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- 竹本氏も指摘されるように、原爆は当時もっとも高度な戦争機密でした。
- アメリカ軍は上陸の直後から、時期戦争最終兵器の効果を調査することを目的に、日本政府に当時の日本の学者を網羅する調査団を作らせました、これが日本政府の学術調査団です。かれらは広島で、物理・科学・植物・医学にわたる膨大な調査を行い、報告書を残しています。この調査団の映画班が「日本映画社撮影班」でした。
- そしてこの調査はもちろんアメリカに報告されます。そして映像は1946年春東京の日本映画社で編集され、英語が吹き込まれます。タイトルは「EFFECT OF ATOMIC BOMB」原爆の効果です。そして残FILMも全てアメリカに送られたと記録に残っています。
- ちなみにこの映画は、そのごアメリカで軍隊による原爆教育に使われ被爆米兵を生み出します。第一回の映画使用は1946年夏の世界最初の水爆実験でした。
- この映画のなかでは、放射線の影響に触れています。
- 当時のアメリカ軍は局地戦に原爆を使い兵隊を投入するつもりでしたから、放射線の影響に強い関心をもっていました。
- 広島の調査では、広島の黒い雨(高須、古江での黒い雨による放射線)調査風景が撮影されています。今の学院の下の旧道に 高須ガーデンというところがあり、その辺は黒い雨による高い放射線測定値検出個所だったようですから、撮影班もなんども学院の下に訪れたようです。
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- 撮影班は現在の日本製鋼所の寮にいましたから、当然己斐を通って高須に行きます。己斐地区での撮影は、あとは己斐小学校ですから、祭りの撮影は恐らくは「ついで」だったのでしょう。全体の撮影のなかでは当時の生活の息吹を感じさせる貴重なものです。
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- で、なんでRCCと私が関わったかということです。被爆50年の前の年、東京の日本映画新社の倉庫から「原爆映像のラッシュフィルム」が見つかりました。見つかったといっても、その存在は内部では知られ、また上記の原爆映画「原子爆弾の効果」も1960年代には日本に里帰りしていましたから、珍しがられもせずに放置されていたわけです。この未整理映像は1946年のアメリカ原爆映画作成のときでたものですが、使われなかったものも含めかなり乱雑につながれていました。これを映像のキャプションをつけようということになり、話がRCCにあり当時遊んでいた私が担当したというわけです。
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- 祭りなども当時なんかわかりませんでした。証言者を捕まえ見てもらいながら特定作業をしていきました。そのような作業を経て、この被爆60年で、昨年夏「ひろしまの記憶」を制作することを決めたというわけです。
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- ながながと申し訳ありません。そんな按配で、お目に止ったのがうれしく、お便りしました。
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- (ENDQUOTE02)
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- (ここからまた竹本隆記す)
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- 藤田氏には、実は、広島学院卒業以来私はお会いしていないが、RCC中国放送に進まれたことはもちろん知っていたので、私の「己斐の俵もみ」のメールにあるいは反応されるんではないかな、という微かな予感を持った。幸い、その予感が当たってくれたのである。しかも、シリーズ番組企画『ヒロシマの記憶』そのものに関わっておられたということを知り、いっそう嬉しかった。
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- 私も遅ればせながら、昨2004年、『ヒロシマはどう記録されたか 〜NHKと中国新聞の原爆報道』(NHK出版)を精読する機会があり、原爆報道と記録において中国新聞社とNHK広島放送局がはたしてきた重要な役割を初めて正確に確認させていただいていたからである。
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- http://www.nhk-book.co.jp/shop/main.jsp?trxID=0130&webCode=00808042003
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- ここで、「己斐の俵もみ」の掛け声について、一言記録しておきたい。どんな雰囲気の掛け声なのかについては、是非、皆様も次のサイトでふれてみてください。なんと、原爆投下からわずかに2ヶ月後の1945年10月に撮影された「動画」を見ることができるのですよ。
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- http://www.rcc-tv.jp/kioku/back/0410.htm
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- ちなみに、
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- やっとこせええ〜 よ〜いやな
- あれわいせ〜 これわいせええ〜
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- 〜ですが、何度 web
で聞き直しても、しみじみ腹に落ちてきます。
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- やっとこさ (米ができた)ね〜 良いことや な〜
- あれは いい! ね〜 これ(この俵)も いい! ね〜
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- 〜と読むのかなと思いますが、確証がありません。ここらへんの「正しい」解題ができる地元の方に再確認してみたいと思っています。「俵もみ」のキーワードが「五穀豊穣」であることから、ややうがった解釈をして、次のようにも読めるのかな、と想像を逞しくしています。
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- やっとこさ 米俵ができたよ〜 用意の時やねえ〜
- あれは 伊勢(路)へ〜 これも 伊勢(路)へ〜
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- 広島・己斐の地にあって、五穀豊穣の秋、収穫したばかりのお米をたっぷり包んだ俵を伊勢路に運び、おかげまいりもしなければ、と威勢良く感謝の祭りを楽しむ人たちがいた(今でもいる)、と考える(想像する)だけでも、心が奮い立ちます! 広島原爆を18才の花恥じらう乙女の年に、爆心地から4.1kmの距離にあった三菱重工業の建屋内で実地体験した私の母・竹本昭子に、1945年10月19日に撮影されたという、この『己斐の俵もみ』の動画を、インターネット映像でこの3月に一緒に見てもらいました。「あの時期に、よくあれだけの元気が出たもんじゃね!」という、たいへん逞しいコメントがもらえたことを、ここにしっかり記録しておきます。母・昭子は、来月・5月には78才を迎えます。
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- (これらのやりとりをした直後の2005年3月下旬、聖地・広島を参詣されたという小宅仁氏から1通のメールが、私のもとに届いた。それから、急な動きとなる。いかに不思議で、意味深い展開となったかについては、この次以降のメールで、お伝えしたいと思っています・・)
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