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- 緒言
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- 世界における武闘的コンフリクトの状況は、いっこうに改善されません。人類史におけるヒロシマ/ナガサキの教訓は、ますます重要度を増してきています。現代における世界の紛争地域に住む人たちの願いは、武力的葛藤の早期/無期限停止、怨恨の連鎖の切断、核に代表される悪魔的兵器の完全撤廃だと思います。私自身の母の原爆メモリーをよすがに、あらためて、この地球社会が直面している「存在リスク」そのものに、皆様とともに向き合いたいと思います。母は、今年・2006年5月に満79才を迎えました。ひき続き、読書欲は旺盛です。本などの内容に触発されて記憶の底からよみがえったこと(かつ私が知らなかったこと)を、いつも積極的に語って教えてくれます。(2006年11月7日記す: 筆者・竹本隆)
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- ver 060926 > ver
061107 の主要な改訂補筆内容:
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- (1) 10cmの鋼板: 梯久美子著の『散るぞ悲しき』に書いてあったことから連想して、「三菱重工業観音工場勤務棟の近くにあった防空壕の天板として10cmもの鋼板が張ってあった」という事実を母が思い出したことを、本文中の補注の1項として取り込みました。ver
060926では、「緒言」の部分でふれた内容です。
- (2) 福島町の食肉処理場の位置に関わる記述: 西観音町交差点から南南西に斜行する道路の形状などを地図の上でにらみながら、改訂補筆しました。
- (3) 黒い雨の降雨開始時刻と降雨範囲: 補注として項目を新設しました。リンクしたサイトにも「(黒い雨は)原子爆弾の爆発20〜30分後頃から広島市の北西部に降り始めました」と書いてある。時間の要素は、母の体験内容と符合している。市外の山間地まで含むかなり広範囲に降雨したというのが、最近の定説であるが、同サイトのマップを見ると、母が黒い雨にうたれた実家の位置は、降雨地の南限すれすれであったように見える。
- (4) 補注「6人兄弟姉妹の次女」の記述: 訂正補筆しました。
- (5) 眉間に木ぎれの刺さった小川米穀店の息子さんが目の前でくずおれた: 黒い雨の中、目の前で息絶えた米屋の息子さんのことを新たに加えました。また、関連する補注を挿入しました。 /小川米穀店の位置: 次のパラグラフに出てくる第二中学の方角の横町に入ったところにあったはずだという。 /飛び出した眼球と巨大な陰圧: 目玉が眼窩からはずれた姿を目撃したという証言は、多くの文書の中で読むことができる。原爆の超高圧の爆風が外向きに吹いた後、ドーナツの真ん中の部分の空気は極端にうすくなった。飛び出した眼球は、その大きな陰圧に関係があったのかもしれない。その真空が呼び戻すように、今度は外側から爆心地点へ向けて強風が吹いた。相生橋目指して逆流してきた強風は、高度580メートルの爆心に向けて奔流のように駈けのぼる。これが、上へ向かってもくもくとキノコのように伸びるキノコ雲を生成した。爆心へ向けて吹いたこの逆向きの強風は熱線により瞬間的に焼けこげたものを大量に飲み込んでいたので、太陽光を遮蔽(しゃへい)し、爆心近くにいた人間はしばらく漆黒の暗闇に包まれた。原爆の「火球は1〜2秒で、あとは急速にその高熱は衰えたはずである。したがってその一瞬に数千度の熱によっていっさいが焼却された」(ヒロシマ青空の会・五十嵐勉氏の記述) 「この黒焦げのものを含んだ半径一キロほどのドームが地上の爆心地帯から上空へかけて形成されたために、光が遮られて地上は闇に包まれたことになる。これがほとんど数十秒間に起こったことだ。キノコ雲の頂上は爆発後八分あまりで約九〇〇〇mの高さに達した」 そして「この黒焦げのものを含んだ半径一キロほどのドーム」は、数十分にわたって中心部の地表を闇のベールで包んだ。母が炎上する観音本町の家を見上げた時、その背後には、巨大なキノコ雲があった。キノコ雲の暗鬱な茎の部分は、ほんの数百メートル先のところから天上に向けて逆立っていた。 (ヒアリング日=061001=昭子母79才&ウェッブサーチ)
- (6) 西練兵場のサトウキビ: 紙屋町交差点の北にのびやかに広がる西練兵場は、母にとって楽しい思い出のいっぱい詰まった場所だった。母が小学生のころ、毎年招魂祭には、練兵場に多くの縁日の屋台が並んだ。西練兵場の西端に招魂社(広島護国神社)=産業奨励館のほぼ真北=があったので、その境内の延長のようなスペースとして利用されたらしい。6人の兄弟姉妹が全員連れだって招魂祭の縁日に出かけると、必ず一人1本ずつ長い姿のままのサトウキビを買ってもらって家に帰るのが楽しみであった。その長いのを、短めの筒状に切って輪ゴムでとめて保管しておき、1本ずつ取り出しては、皮をむいて、甘い糖蜜にとろける思いだった。 (ここまでのヒアリング日=061105=昭子母79才) 招魂祭の開催時期について、061107、広島護国神社にメールを送り質問した。即日返事が届いた。現在は「春秋の大祭」と呼んでおり、「春が四月第二日曜日と、秋が十月二十二日に近い日曜日」に開催されるよし。秋の大祭は、次女・竹本桜子の誕生日前後なんだ、ということもわかった。「聞いた話によれば、招魂祭には県内各地から沢山の参拝者があったようで、オートレース、見世物小屋、サーカスや芝居なども催されて県市民の楽しみの大きなお祭だったようです」というメッセージが添えてある。そういえば、昭子母も、小銭を入れて双眼鏡のようなものをのぞくと一定時間だけ楽しめるカラクリ紙芝居のことを口にしていた。
- (7) 紙屋町交差点で被爆した電車: 今回、「ヒロシマ新聞」を閲覧していて、母が8月9日午後〜8月11日午前のいずれかの時点において紙屋町交差点で目にした死体詰めの全焼全壊電車の写真を確認することができた。これは、暁部隊写真部の河原四儀さんが8月12日に撮影したものという。6日には交差点の少し西寄りにあった電車が、11日にはこの位置まで移動されたと書いてある。すなわち、東方向に移動するとともに、いわゆる路肩に寄せられている。この写真で見るかぎりは、もう車内の死体は搬出されている。おそらく11日の移動時ないしその直前に搬出したのだろう。見たのが11日だったとしたら、同日中に電車の路肩寄せと死体処理が進行したことになる。いずれにせよ、似島には長逗留せず、また袋町から三菱観音工場への挨拶と報告も、ほとんど間髪を入れず実行したように見える。 (ウェッブサーチ)
- (8) 被災救援の目的で沖合の島々と広島市内をつないだ船の便: いつかテレビで、当時、陸軍暁部隊が使っていたという(当然、軍用ということになるが)上陸用舟艇の写真を見たことがある。「ダイハツ」という名前だった。あるサイトには、「大発(日本軍の上陸用舟艇:ダイハツ自動車の前身社製)」という表現がある。そこで上陸用舟艇で検索すると、今度は写真のアーカイブが見つかった。小発動艇は昭和18年ごろ生産中止になっているから、大発動艇(70名収容のもののほか、いくつか型式があったようである)が活躍したと考えるのが、やはり現実的であろう。またさらに、次のような被爆体験記を発見した。陸軍船舶練習部の要員として江田島幸の浦の特攻隊訓練基地に駐屯していた森田登さんは、8月6日当日、きのこ雲を遠望する中、緊迫する基地内で待機していたが、「午後三時頃非常呼集、隊長より各自完全軍装にて広島へ救助出勤の命令を受け」、「直ちに大発動艇にて幸の浦出発、広島へ向かう。宇品の船舶練習部軍用桟橋に上陸。直ちに救助活動に出発。隊列を組んで目的地に向かう。目的地は爆心地紙屋町」と記している。やはり、大発動艇で移動している。 (ウェッブサーチ)
- (9) 空五三〇戦隊: 終戦時、父・竹本義文が所属した陸軍の隊の名前を挿入しました。
- (10) 似島からの移動日: 似島から袋町への推定移動日を改訂しました。
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- 本文
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- ### 『ヒロシマ 壁に残された伝言』が喚起した記憶:
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- その瞬間(1945年8月6日午前8時15分)、私の母は三菱重工業広島機械製作所観音工場にいた。爆心から4.1kmだ。
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- その母が、2004年のGWの連休の間に、井上恭介著『ヒロシマ 壁に残された伝言』(集英社新書)を読んだ。読んだばかりの私が母に渡して、コメントが聞きたかったのである。
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- 読後、母は開口一番、「あれに書いてある通り! 自分があらためて語るまでもなく、あれに全部書いてある通りじゃ」と口にした。「あの袋町国民学校で、博さん(ひろっさん)の手当をしたんじゃから・・」
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- これは、どういう意味なのだろうか? 私も、母が袋町救護センターに「いた」ということは、その時、初めて知ったのである。
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- /井上恭介さん: 以上のような読書体験をいただき、しばらくしてから、私は井上さんと都内でお会いする機会をえた。井上氏には、NHK広島放送局の時代があって、当時、ヒロシマ関連番組を担当されている。その関係でおまとめになったのが、集英社新書の『ヒロシマ 壁に残された伝言』である。2004年以来、NHK東京でがんばっておられる。
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- 住田博は、原爆投下数日後、おそらくは8月10日過ぎから、まさに写真で紹介されている通りの、袋町国民学校西館の焼け残ったコンクリートブロック内に仮設された救護センターで手当てを受けたのだという。住田博が伏せっていた位置は、その仮設救護センターの中央入り口を入ってすぐの、左側へ向かって3番目のところだった、という。母の記憶(本体験記の骨組みとなる部分を聞き取った2004年5月に、満年齢で77才を迎えた)は、きわめて鮮明である。
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- /ヒアリングの継続: 2004年5月以降も、随時、追加のヒアリングを行なってきた。プリントアウトしたものに母は目を通し、内容の精度を検証してもらう。そのフィードバックを、校訂に生かした。なお、3文字インデントして「/」で始まる、この補注形式の部分は、大半が2005年初夏以降に補筆されたものであり、竹本隆による解説、追記、背景情報の説明となっている。
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- 「建物は、コンクリートの壁と天井を残して、あとは全部壊れていた。窓ガラスもなければ、戸板も何もない吹きさらし。それでも、敷地内の木造の校舎は全部消失していたし、周辺の木造の建物もすべて焼け野原でな〜んにもない。だから、そのあたりでは袋町の学校が唯ひとつの人を治療できる場所じゃった。救護センターいうても、床にムシロを敷いて、その上にごろりと横になるだけ・・」
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- 袋町国民学校の中でも西館だけがコンクリート製だった。そのため、爆心からわずか460メートルという至近距離にもかかわらず、コンクリートの筐体だけが損壊を免れていた。
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- 「博さん」こと私の叔父・住田博は、母の3つ年下の弟だった。被爆時、母は18才。博叔父が15才の時のことである。8月6日、午前8:15。爆心から東南東にあたる比治山の南縁にあった県商(県立広島商業学校)に通う住田博は、同級生たちと朝礼の列の中にいた。そこへ、左上空から、灼熱の閃光が襲う。顔の左半面から首筋、上半身の左側にかけて、衣服もろとも一瞬のうちに焼けこげ、ただれた。ややあって、ど〜ん、という地鳴りのような音とともに、爆風が来た。皆、悶絶のうちに校庭にたたきつけられたのであろう。すさまじい火傷の痛みに、少年たちはわれ先にと川へ飛び込んだという。伝聞では、そういう光景になる。
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- /1945年8月6日の曜日: 万年カレンダーで確認すると、この日は月曜日であったことがわかる。月曜日の朝いちばんで、始業前後、通勤途上の人も多かった。さあ、今週もがんばろう、一生懸命仕事をするぞ、という気合の入る朝のことであった。
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- ### 空中ではじける缶詰:
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- 午前8時15分、母・住田昭子(てるこ)は、太田川デルタの西方、福島川と天満川にはさまれた南北に長く伸びる「島」の、そのかなり南方に位置する三菱重工業観音工場の中にいた。観音工場2Fの事務オフィスの机に座って、もう仕事を始めていたのである。そこへ突然、窓からピカッと閃光がさし入り、少しあとに、どか〜んと爆風が来た。爆心は、そこから地図でいうと右上、即ち北東(うしとら)の方角、4.1km先の高度580メートルであった。破壊の閃光、熱風、放射能は、その方向からやってきた。軍需工廠であるため、比較的堅牢な作りであったであろう。工場や事務棟の躯体まで倒壊するということはなかった。しかし、建物の窓という窓は、大半が木っ端微塵になったという。もちろん、その至近距離にいた人は、ガラスの破片が全身に刺さって大怪我をした。あるいは、絶命した。同じ建屋内でも、どの位置にいたかが生死の境をなしたのである。
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- 母は、窓ガラスの破片の犠牲にはならなかったが、瞬間的にほとんど5メートル後ろざまに吹き飛ばされ、腰から床にたたきつけられたという。1Fへの階段の降り口近くまで吹き飛ばされたかっこうだ。運動神経のよかった母は、反射的に階段をかけおり、すぐ近くの防空壕に飛び込んだ。しかし、逆に、中はもうもうと粉塵がたちこめており、待避どころではない。またしても母は、後ろから制止する声を振り切りながら、一目散(いちもくさん)に自宅の方角目指して駆け出していた、という。
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- /5メートル飛ばされた: 爆心から4.1kmの距離がありながら、爆風で5メートルも飛ばされてしまう、というのは、通常の感覚では想像することもできない。大型台風でも、ピークの風速は、大半が秒速40-60メートル止まりではないだろうか。超大型台風/ハリケーンでは、稀に風速80メートル級のものがあるが、このクラスになると甚大な被害をもたらしている。ちょうどこの部分の書き直しをしている050903の直前、アメリカ南部を襲ったハリケーン「カトリーナ」は、風速80メートルクラスの風が猛威をふるい、米国史上空前の自然災害のひとつと記録されることになりそうだ。しかるに、原爆投下直後の爆心地近くでは、秒速400〜500メートル級の爆風があらゆるものをなぎ倒している。おおざっぱに言うなら、巨大台風の最大瞬間風速の「5倍〜10倍」もの風圧にさらされた人たちが現実にいた、という事実に畏怖を禁じ得ない。爆心から至近距離にあった広島城の天守閣は、その姿のまま、そっくり浮遊するように吹き飛ばされ、一瞬のちにお濠の角でクラッシュしている。天守閣が吹き飛ばされていく瞬間を目撃した人の、貴重な証言が残されている。ちなみにではあるが、広島デルタの南西海上にある宮島は、日本三景のひとつだ。そこにある厳島神社付設の海上にせり出した能舞台は、風速60メートル級の台風で、何度か破壊されてきた。
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- 母は、ぐるり眼前に広がる光景に、さぞや「たまげた」に相違ない。この「たまげた」という言葉は、広島人がよく使う表現であるが、この時ほど、その本来の「魂消た」という漢字表記があてはまることは、他になかったのではないか。街そのものが、広範囲に壊滅していた。コンクリートの建物が、点々と市街地の傷痕のように残るのみで、あとは全市が「ひしゃげ」、爆裂の刹那に粉体(ふんたい)に帰さなかった建物も、いまや、すべてが燃えさかり始めていた。右前方上空には、むくむくと膨張する巨大なきのこ雲があった。
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- 母の家は、観音本町1丁目にあった。観音工場から韋駄天走りの途中、缶詰工場にさしかかると、缶詰の缶が「中空で」ぽんぽんはじけていた! それは、世にも奇妙な光景であった。爆風の第一波が缶詰の山を襲った時、どういう具合にかはわからないが、多くの缶が空に巻き上げられたのであろうか。高温で中身が急速に膨張したため、缶が裂けるのだ。裂けた中身が空から降ってくる。巻き上げられずとも、地面にあってはじけて中身を飛散させる缶もあったかもしれない。母の目には、中空で裂ける缶詰の缶というイメージがこびりついた。
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- /観音本町1丁目の家の位置: 爆心からの正確な距離は聞いていなかったが、地図上で目測すると、1.8kmほどにある。爆心と三菱重工の母がいたポイント(爆心から4.1km)の中間点より、やや爆心寄りということになる。家のことが心配で、母は、午前8時15分の直後、爆心に限りなく近いところまでアクセス(逆走)したことになる。
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- /缶詰: 当時、缶詰のような稀少品は、基本的には軍用のものに限定されていた。その缶詰工場の製品が市民の栄養を補給することは決してなかった、と昭子母も証言している。
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- 走り続ける母の背後の頭上に飛行機の爆音が、幻のように聞こえた。原爆投下直後のヒロシマの上空をさまよう米軍機など、あろうはずもない。だが、ほかの広島市民全員と同じように、何が起こったのか、まだ何も理解できていないのだ。母は、地表を右往左往する自分たちの頭上を、嘲るように、あるいはからかうように、なおも機銃掃射してくる敵機の姿を想像しておびえた。想像が現実の威嚇となり、空中から金属音を発していた。前方の視野に穀物畑があった。パニックの中にいる母には、まるでその瞬間オアシスのようにも見えた穀物畑であろう。その穂の海に身を隠しながら、転(こ)けつ、まろびつ、母は進んだという。
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- 家の敷地まで帰ってみると、既に建物は倒壊し燃えさかる炎に包まれていた。「原爆炸裂のその瞬間」から20〜30分は経過しただろうか。というより、まだわずかに、それだけの時間しか、経っていなかった。炎上して灰とススに帰しつつある家を前に呆然と立ちつくしていると、空からぼたぼたと油じみた黒い雨が降ってきた。そのタールを流したような雨を避けるため、ブロックの角のなお屋根をとどめている建物に身を寄せた。そこへ向こうの方から、小川米穀店の息子さんがばたばたと駆けてきた。見ると、眉間に大きな木ぎれのようなものが刺さっている。しかも、両目とも眼球が飛び出し、ぶらんぶらんと頬の上に垂れている。それでは目の見えようはずもないのに、黒い雨の中を走ってきたのである。それはもう、本人の走るという意思とはまったく無関係の、カオスそのものと化した奇怪な運動と言うほかないものだ。外界の大破局のさなかにあって、母には「驚く」という感覚もしびれ始めていたかもしれない。が、それでも、その光景には仰天した。そして、米屋の息子さんはまさに母の目の前まで来て、ばたりと道路の上にくずおれた。一瞬のできごとであったが、母が軒を借りていた建物が今度は発火した。休む間もない。母は、本能的に西へ走った。川の水を目指したのである。どこもかしこも燃え始めていた。一刻も早く、身体にこびりついた黒い雨を川の水で洗い流したいという本能も働いたに違いない。
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- /黒い雨の降雨開始時刻と降雨範囲: 上のパラグラフでリンクしたサイトにも「(黒い雨は)原子爆弾の爆発20〜30分後頃から広島市の北西部に降り始めました」と書いてある。時間の要素は、母の体験内容と符合している。市外の山間地まで含むかなり広範囲に降雨したというのが、最近の定説であるが、同サイトのマップを見ると、母が黒い雨にうたれた実家の位置は、降雨地の南限すれすれであったように見える。
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- /小川米穀店の位置: 次のパラグラフに出てくる第二中学の方角の横町に入ったところにあったはずだという。
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- /飛び出した眼球と巨大な陰圧: 目玉が眼窩からはずれた姿を目撃したという証言は、多くの文書の中で読むことができる。原爆の超高圧の爆風が外向きに吹いた後、ドーナツの真ん中の部分の空気は極端にうすくなった。飛び出した眼球は、その大きな陰圧に関係があったのかもしれない。その真空が呼び戻すように、今度は外側から爆心地点へ向けて強風が吹いた。相生橋目指して逆流してきた強風は、高度580メートルの爆心に向けて奔流のように駈けのぼる。これが、上へ向かってもくもくとキノコのように伸びるキノコ雲を生成した。爆心へ向けて吹いたこの逆向きの強風は熱線により瞬間的に焼けこげたものを大量に飲み込んでいたので、太陽光を遮蔽(しゃへい)し、爆心近くにいた人間はしばらく漆黒の暗闇に包まれた。原爆の「火球は1〜2秒で、あとは急速にその高熱は衰えたはずである。したがってその一瞬に数千度の熱によっていっさいが焼却された」(ヒロシマ青空の会・五十嵐勉氏の記述) 「この黒焦げのものを含んだ半径一キロほどのドームが地上の爆心地帯から上空へかけて形成されたために、光が遮られて地上は闇に包まれたことになる。これがほとんど数十秒間に起こったことだ。キノコ雲の頂上は爆発後八分あまりで約九〇〇〇mの高さに達した」 そして「この黒焦げのものを含んだ半径一キロほどのドーム」は、数十分にわたって中心部の地表を闇のベールで包んだ。母が炎上する観音本町の家を見上げた時、その背後には、巨大なキノコ雲があった。キノコ雲の暗鬱な茎の部分は、ほんの数百メートル先のところから天上に向けて逆立っていた。
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- 県立広島第二中学校(現在の広島市立観音小学校の位置にあった)の横を進み、川べりに来た。そして福島川にかかる橋を渡ろうとしたが、橋もまた炎上していた。デルタのいちばん西の2本の川(山手川と福島川)は、今では浚渫護岸工事徹底ののち統合され「太田川放水路」という名称ですっかり生まれ変わっているが、当時は、どのような川べりの風景だったのだろうか。やむなく、母は、数十メートルを泳いで渡ることにした。背後から火が迫ってくる。対岸へ逃げるしかない。
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- 五日市の先の「楽々園」が、空襲被害を受けた場合の広域避難場所だと決めてあった。そういう意味でも、己斐に至り、そこから南西方向の楽々園遊園地の方を目指さなければならない。母は、幸い水泳の得意な少女だった。市女(いちじょ)では、水泳競技の選手だったという。川幅数十メートルの川を、ためらわず泳ぎ渡ったものである。川を泳ぎ渡るのも、無我夢中である。いったいいくつの流れ行く死体や半死半生の人体にぶつかったのか、その数もしれない。ごつんごつんと自分にぶつかってくる死体をかきわけるようにして、水の中を西行した。
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- /福島川と山手川: 現在、広島デルタには6本の川が流れている。しかし、原爆投下時には、7本の川がデルタを構成していた。現在の6本のうち、いちばん西を流れているのが、いわゆる太田川放水路である。これは川幅も広く、満々と水をたたえて、いつも悠々と流れている。この放水路が完成したのは、長年にわたっての関係各位による治水工事の努力のたまものである。本流の流量に対してデルタの首根っこの部分が隘路となり、またその川下にもくねくねと蛇行する細流部分があったので、たびたびひどい水害に見舞われたのである。太田川放水路の前身は、山手川(西側)と福島川(東側)だ。つまり、これら2本の川が統合されて1本の放水路になった。観音本町1丁目の自宅が目の前で炎上しており、そこへ黒い雨を受けた母は近くの家の軒先で雨宿りしようとした。が、そこにも容赦なく火の手が回る勢いを見て、母は間髪を入れず西の川へ向かって走った。しかし、そこにかかっている橋もまた炎上していたので、対岸を目指して川を泳いだ、ということは前のバージョンにも書いた。その時に泳いだ川は、したがって当時は存在していなかった太田川放水路ではなく「福島川」なのであった。今の太田川放水路ほどの川幅ではなかったと思われるが、それでも、死体の無数に流れる川を泳ぎ渡るのは難事であったことに相違はない。福島川と山手川に囲まれた土地は、大きな川中島のような一帯で、その中島の真ん中に位置する福島町には広大な屠殺場があった。後年、私(著者)は小学校5〜6年の時に、たまたま自転車でその屠殺場に遭遇したことがあった。昭和37〜39年(1962〜1964年)ごろのことだ。巨大な工場からは屠殺された家畜の血が垂れ流され、沼沢地のような浅瀬の水を大量に赤く染めていた。つまり、戦後20年近くが経過しても、なお太田川放水路の整備工事は完了していなかったことになる(太田川放水路整備工事の完了は1967年のことであった)。かつて、福島町の屠殺場があった位置は、今の広島市西区区役所ビルが建っている場所から南方至近距離ではなかったかと思う。広島の道路は城下町であるせいか東西南北の碁盤の目が比較的よく保存されている。しかし、西観音町交差点から南南西に斜行して太田川放水路に出る道は、明らかにそのルールに背いている。この斜行部分に、昔は福島川が流れていた。「屠殺場」も、今は、「食肉処理センター」といった言い換えをしなければ、理解されないかもしれない。あるいは、不適切な表現ともされるであろう。住所と業種で検索をかけてみると、現在でも、そのあたりに食肉処理業を営む会社があることがわかった。
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- 昭子母は、福島川を泳ぎ渡り、福島町を過ぎて、己斐の電停が望める山手川の川端まで来た。そこと対岸の己斐を結ぶ橋は幸い焼けていなかったので、歩いて渡ることができた。土橋のような橋で、その風雪に耐えた時代もののような姿は、筆者も少年のころに自らの網膜に焼き付けている。
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- ### 血の川となった道を走る:
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- 向こう岸に着くと、南西に下る道に、人々は、ひしめくようにして流れていく。もちろん、己斐の谷間を上る人もあっただろう。三滝観音の方へ逃れた人もいる。
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- 母は、いったん己斐の駅頭まで行った。そこで、学校(市女)の友達の瀕死の姿に遭遇する。新庄さんという女の子だった。息も絶え絶えで、母の膝に下からしがみつくようにして、「助けて〜、ねえ助けてよ〜」と懇願されたという。しかし、母もそれどころではなかった。家族が無事かどうかも、この時点ではまったくわからない。自分自身の1時間後の生き死にもわからない。忽然と、広島の大半の人たちが、あらゆる日常的な時間と空間から突き放されたのである。
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- /迫る炎はどこまで?: 己斐駅の西南方に、すぐ小山が迫っている。旭山神社である。八幡川にかかった橋を渡ると、そこには小さな前庭があって、すぐに数百段の階段が胸突き八丁である。登り切って、右に向かうと社殿がある。8月6日には、この旭山神社の社殿も爆風で破壊された。のみならず、熱線によって周辺の立木が山火事を起こしている。つまり、己斐地区も、この時、火災とは無縁ではなかった。この旭山神社には、三韓征伐の帰途、神功(じんぐう)皇后が投宿されている。長旅の疲れを癒していただくため、足下の川でとれた大きな鯉を県主(あがたぬし)が献上した。この鯉料理に神功皇后はたいへん感激され、「このあたりを『コイ』と名づけよう」と言われたらしい。ここから、己斐(こい)という地名が生まれ、広くは広島デルタ全体を「コイ」と連想づけることになった。広島城の別名は「鯉城(りじょう)」である。プロ野球の広島カープ(carp=鯉)の名前も、同じ理由に由来している。旭山神社のお膝元、八幡川沿いの地は、私・竹本隆が2才以降、広島学院中学3年まで暮らした場所であり、小学校も己斐小学校であった。己斐駅前周辺は、原爆後初めて広島で闇市がたった場所であるとも言われている。1945年10月には、はやくも、「己斐復興祭」がこのエリアで開催されており、そのおりの動画を、インターネットで見ることが既に可能となっている。なお、「三韓征伐」というのは、西暦3世紀に挙行されたものらしい。京都3大祭のひとつである祇園祭では、街を練り歩く山車のひとつに、神功皇后のそれ(占出山=うらでやま)が含まれている。
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- 午前8時15分という時刻には、まだ母・八重子(当時38才)と2才下(16才)の妹・美代子は家にいたはずなのに、黒い雨が降り始める直前にたどり着いた時、燃えさかっている家のまわりには、もう家族や近所の人の顔はほとんどなかった。3才下の弟・博は、比治山の近くの学校にいたはずだ。母は爆心の南南西方向にいたので、弟の学校のあたりでは、たいへんなことになったはずだと考えた。7才下(当時11才)のふたごの妹と弟は、しばらく前から佐伯郡の田舎の方(玖島
[くじま]
方面)に「つて」があって疎開していた。2才上の姉は、やはり三菱重工業観音工場の別の建屋で仕事をしていたはずである。
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- 母は、その己斐の駅頭で新庄さんに泣きつかれた瞬間に、自分のまっさきになすべきことを思い出した。楽々園を目指して走らなければならないのである。頭の中の空襲時緊急避難マニュアルには、そう書いてあった。友を助ける前に、自分を助けなければならなかった。新庄さんだけではない。回りを行き交うのは、むごい怪我人ばかりなのである。ここに来るまでに、いったいいくつの死体を見てきたことか。あまりにも凄惨な光景の連続の中で正気を保つことは、不可能に近い。背後でごうごうとうなりをあげる火炎地獄にもかかわらず、家族のみんなが生き延びていて欲しいという思いが心をよぎる。だが、まだ、この瞬間には、その願いも「希望」という2文字の言葉でしかなかった。「ごめんねえ、許してねえ」と言いながら、母は泣く泣く、瀕死の友を駅頭に置いて、南西に向かう道路の上を歩き始めた。
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- /市女(いちじょ)の仲間たちは、どこへ?: 母は、市女の出身であった。正式には、広島市立第一高等女学校。現在の広島市立舟入高校=広島市中区舟入南1-4-4=だ。原爆で、市女は先生と生徒合わせて679名がなくなった。もっとも多くの原爆犠牲者を出した学校となっている。あまりにも無惨な一撃である。犠牲者の多くは、校舎周辺ではなく、爆心地から約500mの建物疎開作業現場(当時の材木町〜木挽町(こびきちょう)あたりほか)で、原爆の直撃を受けた。
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- /運命の建物疎開担当日: 当時18才の母も挺身隊だったので、三菱重工業広島機械製作所観音工場での執務と建物疎開など屋外での作業に、交互にかり出される日々であったよし。実は、8月6日に母自身が左官町に建物疎開に行く予定に、当日の少し前までなっていたのが、なぜか8月4日に振り替えになって、実際、4日に左官町での現場作業に汗を流している。左官町というのは、土橋の電停の北側、現在の本川町あたり。広島記念病院も近くにある。もっと正確に言うならば、爆心直下から西南西至近距離のエリアである。もし、昭子母が8月6日に左官町ないし材木町〜木挽町で、その時間に建物疎開に従事していたならば、ほぼ間違いなく即死していたであろう。スケジュール変更によって、九死に一生を得たことになる。8月4日の左官町での建物疎開作業の話に連動して昭子母のメモリーから、そのほんの数日前に、三菱重工業観音工場の防空壕から目にした光景が、やはり問わず語りに出てきた。三菱の工場近くであったためか、そこの防空壕には他の一般の防空壕とは異なり天板部分に10cmもの鋼板が張ってあった。防空壕に身を潜めながら、好奇心から空をうかがい見る母の、その目と鼻の先にまで超低空飛行の米機が迫ってくる。重爆ではないので、それは、ほんの試し撃ちのように、ぱらぱらと射撃してきたそうである。防空壕のメタルの天板に当たった弾は、キンキ〜ンという金属音を立てて爆(は)ぜる。母の目にはコックピットの中の米軍パイロットの表情までつぶさに見えたという。アイマスクの中の欧米人特有の窪んだ目。口の中でガムを噛みながら、にやにやして、まるで冗談のように弾を浴びせてきたように思えたそうである。その日から、さらにもう少し前の話としては、やはり同じように防空壕の中にいて、すぐ先の広島湾の沖合から低空で迫ってくる米機が、地対空迎撃を受けたのか、それとも機器トラブルがあったのか、陸路の手前で失速、水中に墜落し、溺れたパイロットがアップアップしている姿まで、手にとるように見えたそうだ。三菱重工観音の建屋群は、そのような水辺、すなわち今で言うところのウォーターフロントにあったということが彷彿とさせられる。
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- /上記補注は、ver
20060926において初めて挿入された。その中の「そこの防空壕には他の一般の防空壕とは異なり天板部分に10cmもの鋼板が張ってあった」という部分は、『散るぞ悲しき』(梯久美子著、新潮社)を読み終わってすぐの時に、母はその内容から連想して思い出したようであった。同著は、硫黄島総司令官を務めた栗林忠道中将に視点を当てたヒューマンドキュメントだが、その中には「22平方kmの絶海の孤島(東京から1,250km)、硫黄島には川も地下水もなかった。そこに栗林中将以下2万有余名の陸海軍軍人軍属が配属される。マリアナ諸島(サイパン、テニヤン、グアム等によって構成される群島)と東京の、ちょうど中間地点にあたる硫黄島。アメリカが満を持して展開した硫黄島上陸作戦の直前、この狭い島の地表に投下された砲弾等メタルの総量は、ならして1メートルにもなるほど堆積したというすさまじさであり、第二次大戦において、一戦場に投下された砲弾薬の総量において、ノルマンジー上陸作戦をも超えて、これ以上のものはなかったとされている」という趣旨の内容が記述されている。
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- 川の流れの中で失ったのか、とっくに靴などない。裸足のまま車道を歩いた。衣服は濡れて、すすけていた。その道路は、文字通り血の海だったという。次々に死体を山積みしたトラックが追い抜いていく。どの死体も、焼けたり、裂けたりして、激しく出血していた。トラックの荷台にたまった血液が、あふれて道路にこぼれる。血を大量にしたたらせながら、何台のトラックが追い抜いていったことだろうか。母は、血の川となった道路の上を、ひたすら楽々園の方向を目指して移動した。夕方までの時間が、どんな風に過ぎていったのか、それは脈絡のある記憶にはなっていない。回りには、命からがら避難するおびただしい数の人の渦があったはずだが、人々の横のつながりは揮発して、みんな蜃気楼の中の絵のようだった。
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- /母による裸者と死者の描写: 母は口頭での表現力の豊かな人であった。多くの原爆文献にある通りの、原爆の直撃でなくなったかたがたのさまざまな死に姿を、筆者は少年のころ、母から繰り返し聞かされて育った。この口伝によって広がるイメージの世界は、原爆資料館に展示されている多くの資料と較べても、格段に多様で生々しく少年のメモリーに刻まれていった。四囲の日々の日常生活はもう平穏なのに、母に耳を傾けている時だけ、まるで極彩色の怖い紙芝居のような世界が、何百枚も何千枚も連なって、私の眼前には広がっていた。
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- /母の靴: 靴は、おそらく福島川を西に泳いで渡る時、流れて失ったらしい。つまり、対岸に泳ぎ渡って以降は、裸足となったのである。その後、8月8日に石炭車で宇品近くまで南下し、似島まで渡航し、すぐ袋町に帰ってくるまで、ずっと裸足のままだった。以後も、しばらくは裸足のままである。いつ靴をあらためて入手できたのか、昭子母の記憶の中でも定かではないという・・
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- 己斐駅前から南西に下る道の途上、意識は譫妄(せんもう)状態にあったにもかかわらず、弟が収容されていないかと、学校の講堂やそれに類した公共の建物の中を母はくまなく見て回ったようだ。この点は、2006年9月20日のヒアリングの中で、深遠な記憶の底から微かにすくいあげるようにして初めて語ってくれたことである。そのために、ずいぶんと時間をとってしまった。どこもかしこも、あたり一面が、狂気へ誘(いざな)うような光景の連続だった。五日市方面に下ろうとした最初のどこかで、母は宮島線に乗ろうとした。ところが、車内には重傷者がひしめいており、すぐに、係りの人間にひきずりおろされた。その、つかの間の車内で、誰かの焼けただれた血まみれの腕が自分の顔に押しつけられた時の、なんとも言えない感覚が母の記憶にはこびりついている。
母は、夕刻には、五日市駅の近くにいた。疲労もたまり、空腹で、それ以上道を行く気力はなかった。路頭に惚(ほう)けたようにたたずんで、街道を下ってくる人の波に、しびれたように視線をさまよわせ続けた。しばらくすると、その中に、姉の笑子(えみこ)の姿があった。無事な姿を見て、ほっとひと安心したという。2才上の姉・笑子(当時二十歳)も、三菱重工業に勤務していた。同じ三菱重工業とはいっても、敷地は広大で、建屋がいくつもあった。物理的には、まったく別の会社にいたに等しい。なので、笑子と昭子の待避経路は、当然、違ったのである。閃光と巨大な衝撃波のあと、市民ひとりひとりの行動は、まるでそれ自体が解き放たれたアトム(原子)のように、てんでに、ばらばらの方向へ発散した。一切の統制が、突然消えたのである。街の顔そのものが溶けて、日常的秩序のあらゆる決め事が刹那(せつな)のうちに意味を失った。笑子と昭子をつなぐ線も、瞬時に絶たれた。以後、市内全域を、混沌が、叫びとささやきと炎が、いっせいに支配した1日であった。それにもかかわらず、笑子と昭子の2人の命の線が、8月6日、夕暮れの五日市の駅頭で再び交わったのである。
笑子は楽々園に向かうというので、先に行かせた。楽々園は、五日市からは、もう至近距離である。自分の方は、そのころまでに近くの文具屋さんで一夜宿を借りる交渉が成立していたので、そこを根城にした7日以降の行動予定のことが念頭をよぎっていたに違いない。「行動予定」というと、いかにも理路整然とした物言いだが、どういう方法をとってでも、姉・笑子以外の肉親の安否の確認をしたい、というやむにやまれぬ一念だけが、体の芯を貫いていた。その後、母・八重子と妹・美代子に再会するまでに、おおよそ1週間の空白が生じている。しかしながら、後年にいたっても、その空白の約1週間について母が2人に詳しく質問して埋めようとした形跡がないのである。サバイバルのためのどさくさは、あまりにも目まぐるしく、その間、その2人がどこで、どう待避していたのか聞いてみる暇と余裕すらなかったというのが、案外真相のようにも思える。
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- /6人兄弟姉妹の次女: 母・昭子は6人兄弟姉妹の次女だった。その母・住田八重子(昭子母+20才)は、海原繁一(かいばら・しげいち)との間に笑子(母+2才)、昭子、美代子(母-2才)、博(母-3才)の4人をもうけ、山田禄一(やまだ・ろくいち)との間に双子の桂子と桂三(けいそう)(母-7才)をもうけた。山田禄一と離別後、八重子は、女手ひとつで6人の子どもたちを養っていた。熱烈な真宗安芸門徒であり、いつも「なんまいだ、なんまいだ」と念仏を唱え、熱心な帰依心そのものの生き様であった。私が小学生のころ、私の膝をかき抱き、法悦の未来を語ったのは、この「八重子おばあちゃん」であった。放射線の影響ゆえか、甲状腺の機能高進によって、少しのど笛のあたりが腫れていた祖母・八重子も、被爆時は38才だったが80才くらいまで生きた(1988年に他界)。叔母・笑子は、2005年9月初頭現在、広島で存命であり、病院の中で80才を迎えている。
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- その夜、五日市の文具屋さんの家の2階から見た広島市内の様子は、陰惨なものだったという。夜通し、市内全域が真っ赤な炎に包まれていた。翌日家族を探しに市内に戻るつもりだ、という母・住田昭子の言葉を聞いて、文具店の人は、思いとどまるようにと言ったらしい。「ああいう状態じゃけえ、あぶないよう。しばらくは、行きなさんな」とでも言われた景色が、まぶたに浮かぶ。
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- 8月6日の夕刻、母・住田昭子が五日市の駅頭にほうほうのていで達した時、もちろん彼女はひとりである。工場の仲間と連れだって、ともに手をとりあって避難するというような系統だった行動を、この日、誰もとることなどできはしなかった。五日市に孤立した状態の母・昭子は、その時点で、姉・笑子を除く4人の兄弟姉妹、自分の母親がどこで、どう生死の境をさまよっているのか、まだまったく知りようがなかった。
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- 幸い、母に外傷はなかった。工場の窓ガラスの破片で体が裂けることもなかったし、火傷もおわなかった。後年の話になるが、小学生の私に、時々、母は喉ぼとけのすぐ下を指さして見せることがあった。そこには、微かに緑がかった直径1ミリほどの隆起があって、よく目をこらさないと見えないのだけれど、それが、その時、体に入った、ガラスの小片なのだという。これまた、さらに後年になるが、成人した私が母に昔見せてくれた喉ぼとけの下の薄い緑のしるしのことを聞くと、不思議な答えが返ってきた。「いつのまにやら、あれは、どこかへ消えてなくなってしもうた」のだと。
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- /喉仏の緑色した小さな隆起: 目に見えるものとしては、この微かな緑色の首筋の隆起だけであったが、原爆投下直後からしばらくの間は、母の身体は、濃厚な放射線の環境の中にあった。そして、事実、その後長期にわたって、母の白血球の密度は、標準値から乖離した。標準値よりかなり上の値と、かなり下の値の間を、予測不可能な形で揺れ動き続けたのである。放射能による遺伝子へのネガティブな影響のためであると思われる。ところが、不思議なことに、今から15年ほど前(つまり1990年ごろ)から、昭子母の白血球の値は、安定し始めるのである。外的環境の安定が長期にわたって続いたため、遺伝子の「戻し」変性が起こったのであろうか?
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- ### 8月8日(Two
Days After):
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- 翌8月7日、母が思い立ったことは、「弟を探さねば!」だった。朝目覚めて五日市から遠望すると、市内は壊滅状態である。観音本町の家の跡には、炭塵以外のものが残っているはずがない。生命を寄せる、つっかい棒が、そこにはもうないのである。昨日みた炎上する自宅には、妹・美代子と母・住田八重子の気配がもうなかった。2人が目の前の紅蓮の炎の中にいないことを心の中で祈りつつ、きっとどこかに待避したのだろうと、いちるの望みをつないだ。今は、どこにいるのか? それはわからない。でも、ほかに、何かできることをしなければ。そうだ、弟が昨日登校した学校の様子を見に行こう。母は、弟の通う県商(ハチロクの時点では、比治山のすぐ南の広島市皆実町1丁目にあった)に行って、自分の目で確かめることを決意したのである。ほかに考えつくことがなかった。気ばかりはやり、いてもたってもいられなかった。
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- とはいえ、母の体の衰弱は、さらに、もう1日の休息を必要としていた(ようである)。これまでの母からのヒアリングを総合して考えると、筆者は、そのように推測している。8月7日夜、もう一泊だけ五日市の文具屋さんに泊めてもらえたのか、どうか。母には、そのあたりの正確な記憶がないという。しかし、下に記すように、母が県商への足に使ったという石炭車が走ろうにも、山陽本線の己斐駅〜広島駅区間が8月7日時点では、なお不通のままだった。しかも、文具屋さんに借りた部屋から出ても、石炭車に行き着くまでに野宿できるような場所など、あろうはずがなかった。あるいは、百歩を譲って、実際には野宿したのかもしれない。しかし、その記憶が「こっぽりと(広島弁?)」(=すっかり)抜け落ちているのである。ただひたすら、宇品の貯炭場に向かう列車を逃すまいという執念だけで、その瞬間まで持ちこたえたという可能性、なきにしもあらずだ。
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- 母が、県商への足がわりに使ったのは石炭を積んだ貨物列車だった、という。どこから乗り込んだのか、これまた記憶から脱落している。おそらく己斐まで歩いて己斐から乗ったのだろう、と母は推測する。駅舎の人間に言われるがままに、貨車によじ登ると、石炭の山の上に大の字に腹這いになった。鉄道は、己斐からお椀を伏せたようなアールを描いて市の北東部にある広島駅に至る。広島駅から宇品線で南下すると、県商の近くを列車が通過するはずだ。
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- /山陽本線の復旧日: 公式の記録では、関係者の必死の復旧作業により宇品線は8月7日に開通したものの、山陽本線己斐駅〜広島駅間の復旧は8月8日まで待たねばならなかった(横川駅近くの線路に不通箇所があったし、広島駅そのものがかなりの被害を受けた)とされている。
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- /石炭車: 井伏鱒二の名著『黒い雨』には、原爆投下後から、山口県の方から石炭を満載して宇品の貯炭場に運んでくる貨車の便は止まり、復旧の見通しも立たない、と書いてある。293ページ以下(新潮文庫、昭和45年6月25日発行)の8月14日の記録として、次のように記されている。(旧字は新漢字にあらためて引用する/[
]
内は筆者補充)「・・上り列車が物々しく乗客を満載して通過した。石炭貨車は一両も牽引していなかった。僕は
[己斐]
駅長に面会の許しを得て石炭貨車の件について訊ねたが、八月六日このかた一車も来ないばかりでなく、次の到着についてもいっさい連絡がないと云う。六日から今日まで人の輸送が精いっぱいで、貨物なんか今はどうにもならないとのことだった」(pp296-297) とはいえ、母が原爆投下まもなく、大の字になって身を預けた石炭車が、幻のものであったとも思えない。当時、西から東上し、宇品に石炭を運ぶ貨物列車の運行指示は、広島市内にあった石炭統制会社から発せられていたようである。ところが原爆被害で、同統制会社は壊滅、しばらくの間、生存担当者のひとりもいない状況が続いたことがわかっている。そのことには、『黒い雨』の中でも、繰り返し言及されている。担当者がいない状況では、運行指令の出しようがない。だから、8月6日以降、ある時期までは、搬入指令が来ないままに、一車も石炭の運搬を行なう列車は走らなかった。しかるに、母が腹這いになって足代わりに使ったという、おそらく8月8日に東上した石炭車は、8月5日以前に、市内の石炭統制会社から配送指令が出ていたのに呼応したものではなかったか。あくまでも、これは推測に過ぎないが、そのように解釈すれば、かろうじて、母の乗ったという石炭車と井伏鱒二の記述が矛盾なく並び立つのである。以上の点は、今後の厳密な歴史の検証に委ねることにしたい。「8月8日に山陽本線を東上し広島駅を経由して宇品に続く鉄路を走り抜けた石炭車」の確証をお持ちの方がいらっしゃれば、是非、竹本隆まで情報をお寄せください。
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- 広島駅と軍港の宇品をつなぐ宇品線は、軍需物資搬送用の動脈であった。軍の貯炭場も宇品にあったので、石炭列車は、宇品を目指して走る。腹這いの母を乗せた貨車も、己斐駅から広島駅へと向かい、そこから南下して比治山の東側を走った。県商の近くで貨車から飛び降りると、顔や手足は石炭の粉で真っ黒になっている。まっすぐに、県商の校庭を目指して走った。校庭には、多くの学生帽が飛散している。しかし、生徒の姿はまったくない。住田昭子は、ひとつひとつ帽子を調べて回った。必死である。その中に、弟の名前が記された帽子があった。
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- /宇品線: 日清戦争の軍用輸送のニーズを満たすため、突貫工事で建設、1894年8月に完成した。全長5.9km。しかし、戦後1972年には廃線となった。1999年には、宇品駅跡自体も撤去された。また、「残っていたプラットホームのわずかな縁石」も、2004年5月18日までに完全に撤去されたという。1945年当時、宇品線は、比治山の東側を広島駅から南下していた。比治山の北から東側にかけては段原地区が広がる。この一帯でも、屋根の飛んだ家は多かったが、火災の延焼からは免れた。さらに以南、宇品にいたる一帯は、幸いにも、火炎地獄にはならなかった。
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- これは、次のように解釈するしかない。閃光が炸裂した時、住田博はそこにいた。そして、帽子のことなどかまっている暇もなく、皆、いっせいにあわてふためいてどこかへ移動したのである。
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- 母が校庭にいた学校ないし軍の関係者とおぼしき人に聞いたら、3つのことを教えてくれた。ひとつは、朝礼の最中だった生徒たちは、みんな大やけどをおい、真っ先に水を求めて川へ走ったということ。熱傷を癒す水がどうしても必要だった。ふたつめは、絶命しなかった生徒たちは、仮の救護地として指定された似島(にのしま)に運ばれたようだ、ということ。3つめは、そのおりだけの臨時便だったのかどうかわからないが、近くの川べりから似島へ運んでくれる船の便があったということ。以上の3つである。死線をさまよう県商の生徒たちを助け、かばうようにして船に乗せる人の手があったことを、母は知った。母は、とるものもとりあえず、似島へ向かうことにした。そうする以外に、どういう選択肢があっただろうか。
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- /被災救援の目的で沖合の島々と広島市内をつないだ船の便: いつかテレビで、当時、陸軍暁部隊が使っていたという(当然、軍用ということになるが)上陸用舟艇の写真を見たことがある。「ダイハツ」という名前だった。あるサイトには、「大発(日本軍の上陸用舟艇:ダイハツ自動車の前身社製)」という表現がある。そこで上陸用舟艇で検索すると、今度は写真のアーカイブが見つかった。小発動艇は昭和18年ごろ生産中止になっているから、大発動艇(70名収容のもののほか、いくつか型式があったようである)が活躍したと考えるのが、やはり現実的であろう。またさらに、次のような被爆体験記を発見した。陸軍船舶練習部の要員として江田島幸の浦の特攻隊訓練基地に駐屯していた森田登さんは、8月6日当日、きのこ雲を遠望する中、緊迫する基地内で待機していたが、「午後三時頃非常呼集、隊長より各自完全軍装にて広島へ救助出勤の命令を受け」、「直ちに大発動艇にて幸の浦出発、広島へ向かう。宇品の船舶練習部軍用桟橋に上陸。直ちに救助活動に出発。隊列を組んで目的地に向かう。目的地は爆心地紙屋町」と記している。やはり、大発動艇で移動している。
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- しばらくすると、母は、似島に降り立っていた。安芸の小富士といって、華奢で美しい山をいただく広島デルタ沖合の小島である。お天気のよい日に陸から四国の方を見はるかすと、濡れてきらめくような瀬戸内海の銀波の上に、安芸の小富士は心地よくしずもっている。その名勝地が、今は、負傷者の血を吸って朱(あけ)に染まっていた。
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- 半死の重傷者が並ぶ救護所に来た母は、あたりを見回すが、見慣れた弟の顔はない。そこで、声をあげて、弟の名前を呼んでみたという。すると、か細い声で反応した横臥の少年があった。博であった。しかし、顔が巨大な「とうがん」(大型の瓜=うり)のようにはれあがって、とても見た目には弟とは思えない。左半身が焼けただれている。言葉を交わしていると、上空にグラマン機のような飛行機の音がした。とっさに住田博は、その半死半生の身体を起こし姉・昭子を抱えるようにしてかばったそうである。「自分は、もう死んだも同然の体。わしは、お姉さんの命を守らんといけん」 気丈な博は、そう口にしたという。15才の少年である。
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- /似島: 原爆投下時、この島にも陸軍暁部隊(陸軍運輸部船舶司令部)という部隊が展開していた。元宇品に暁部隊の地下司令部があったとされている。この似島部隊は、原爆投下直後、広島市の周辺で救援の目的のために機動的に動くことのできる、唯一の残存軍人部隊だったようである。第二総軍司令部や西練兵場にいた兵士は、大半が即死した模様である。陸軍暁部隊の存在ゆえに、比治山の横で被爆した少年たちも、いちはやく瀬戸の波頭を越えて似島に運ばれたのであった。原爆が投下されてから、似島には1万人以上の被災者が運ばれたというが、その多くがそこで命を落とした。実は、この似島は、日清戦争の時から、歴史的な位置を占めることになった。疫病戦とも呼ばれた日清戦争(死者13,000〜14,000のうち、コレラや赤痢による戦病死は実に1万人以上だったと伝えられている)の終結後、内地に戻る兵士たちの入国検疫が行なわれたのは、まさに、この似島においてであった。第一次大戦では、似島に、ドイツ人の捕虜収容所が設けられた。そして太平洋戦争の末期、この島は、陸軍暁部隊の駐屯地となっていた。そんなわけで、宇品港から似島周辺に至るこのあたりは、「広島港要塞地帯」と呼ばれていた。この地帯に駐屯する暁部隊の存在なくしては、原爆炸裂直後から、市内各所より、数多くの重傷者を海路似島へ大量移送することなどできなかったはずである。
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- ### 袋町国民学校:
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- 似島の急ごしらえの救護所は怪我人であふれかえっていた。だが、医療の専門家がいるわけでもなく、薬や医療用具なども欠乏している。治療どころではない。そこで母は、市内の袋町に救護センターができる、あるいはできた、という情報を聞きつける。8月8日に似島に到着したとして、どうやら、その日のうちか翌日には弟ともども袋町に移動したらしい。その敏捷な身のこなしは、18才ゆえのしなやかさと思える。(061107時点で18才の次女・竹本桜子はちょうど同い年なので、ビビッドにそのことがわかる) 母の記憶と状況証拠を突き合わせると、袋町への移動はは8月8日か9日だったようである。
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- 重傷の弟に割り当てられたスペースは、袋町救護センターの入り口を入って左3列目のコンクリートの「地べた」であった。治療を受ける弟を看病しながら、母はここで10月のある時期まで過ごしたようだ。この救護センターと三菱の工場をつなぐ動線の中間地点に自宅の跡地があった。この間に、(疎開していたふたごの妹・弟の2人は別として)救護センターに顔を見せた他の家族との再会を順々にはたしていったようである。奇跡的に、家族の全員が生存していた。しかも、博を除く全員が幸いほとんど少なくとも外形的には無傷であった。
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- 叔父・博は特に左腕の火傷が重篤(じゅうとく)であった。上腕と前腕の皮膚が焼けただれて貼り付いた状態になっていたので、担当医師が、心を鬼にして癒着部分を切り裂き、日々、少しずつ肘を伸ばす治療と訓練を続けた。母は、弟の患部をウジの巣窟にしないために、ハエを追う日夜であった。
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- 日ごとに死者の数は増え、重傷者には苦悶の時が続いた。しばらくの間、市内のいずこでも数多くの死体を焼く光景があった。焼いても焼いても、死体がなお山をなしたので、一計として死体を埋めることになった。大きな穴が各所に掘られて、死体をそこに投げ入れ、埋めた。しかし、土葬の弔いにもひとつのルールが適用された。と、母は言う。「どの死体からも片手を切り落として、その片手だけは集めて焼いてお骨を取った」というのである。あまりの数の死体だったので、次々に片手を切り落としていく光景が延々続いたという。片手を失った死体は、すべて穴に埋め、土をかけた。「姓名のわからない片手もお骨にされて、保存された」 身内のお骨が特定できないので、せめて身内のものと思いなして渡される「片手の」お骨を持ち帰った人たちも多かったようである。
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- 二中の校庭にも、片手を切り取られた死体を埋めるための巨大な穴がうがたれた。ある時点で、母はそれを目にしている。市内のありとあらゆる広い空き地には、すべて同じような堀割形の墓穴がうがたれた。小学生の私が遊び回った己斐小学校の校庭にも、当時大きな穴がうがたれ、多数の死体が埋められたという。これは、私が成人して以降聞いた話だった。無垢の小学生は、自分たちの運動場が、巨大な墓場だったことを知らなかった。
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- /己斐小学校の校庭にあった千人塚: 1,000体もの遺体が、己斐小学校の校庭に埋葬されたという。
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- 袋町国民学校の校庭も、例外ではなかった。大きな穴が掘られ、片手のない死体が次から次へと投げ入れられ、埋葬された。救護センターで治療を受ける者も、家族の介護を続ける者も、しばらくは、日々そこでそのような地獄絵図を見続けた。自分自身の体の苦痛と、目から刺さる苦痛と、家族の行方も知らない人間においてはさらに暗うつな神経の苦痛がこれに加わって、精神の錯乱をきたす人間が多かったという。袋町救護センターの一角のテントの横には、池があったそうな。「気の狂うた人が池に飛び込み自殺を図ろうとする。ひとりや、ふたりではない。でも、その池は腰の深さしかないので、死にたい人も死ぬに死ねなくて・・・」
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- それはもう、阿鼻叫喚の絵そのものであった。
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- /福屋みなし伝染病院: 袋町救護所で弟の看病に集中しながら、自らの心身と環境の天国と地獄のような激変の中で、昭子母自身の命のエネルギーも衰弱し切ってしまいそうになる瞬間が、繰り返しやってきたであろうことは想像に難くない。袋町救護所から至近距離に広島を代表するデパート、福屋の建物もあった。が、それも、今や外郭のみを残す廃墟となっていた。福屋の建物は爆心から東南東710メートル。福屋は、ハチロクの前、「白亜の殿堂」と呼ばれ、地上8F、地下2Fの偉容を誇っていた。そこが、8月17日から1ヶ月、伝染病院として使われることになった。急性原爆症が赤痢との誤った情報が流れたせいである。つまりは、重傷者の収容所となっていたのである。地下は、死体焼き場となったとも伝えられている。母は、頭髪が抜けることはなかったが、下痢など急性症状があったらしい。そのやつれた姿を見て、ある時、誰かが路上で母を福屋病院の方へ収容しようとするそぶりを見せた。とっさに母は、その手をかわし、袋町救護所の方へ脱兎のごとく走って逃げたそうである。袋町救護所の方も怪我人だらけだったのに、もっと怖いイメージが福屋収容所にはあったという。福屋収容所に拉致されたら殺されるようなもんじゃ。そう本能的に思ったに違いない。
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- 原爆投下の翌月、9月中旬過ぎのことである。『往生要集』のような地獄の日々の続いてきた広島の市街地を、枕崎台風は情け容赦もなくなぎ払うことになる。広島に上陸したのは、9月17日の夜であった模様。広島では、最大瞬間風速45.3m/s
を記録した。太田川では堤防が決壊し、低地には水が氾濫した。まさに、泣きっ面に蜂である。枕崎台風が広島を通過した時もまだ、袋町救護センターのコンクリートの要塞には、ガラス窓もとびらも嵌(はま)ってはいなかった。しかしながら、台風一過、広島市民の間には、「あの暴風雨が、きっと放射能を広島の土地から全部洗い流してくれたはずじゃ」という祈りのような囁きが伝播することになる。彼らには、台風の雨風など、ものの数ではなかった。枕崎台風をも踏み台にして、こうして原爆の惨禍から精神的に癒えていった人々の「生命力」の野太さに、感動する。
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- ### スリーダイヤ(三菱)の幸運:
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- 袋町の救護センターにも、福音(ふくいん)の気配がないわけではなかった。「お〜〜い、三菱の人間はおるかあ〜?」という声をあげて焼け跡の間を回る三菱のトラックが、袋町救護センターに詰める昭子母とコーポレート三菱の、原爆後の最初の接点であったという。袋町入所後かなり早期に(おそらくは、8月9日午後〜8月11日午前のいずれかの時点)、昭子母は、三菱重工業観音の事務所を訪問したようだ。前借りのお願いをしに会社に向かったものと思われる。年頃の女性として、汚れきったぼろを身にまとった姿を人目にさらすのは言いようもなく恥ずかしかった。でも、背に腹は替えられない。袋町救護センターに入所した時点で、手持ち現金はゼロだったのだから。袋町救護所から電車通りに出て北上、紙屋町交差点に差しかかると、そのど真ん中に、原爆の直撃を受けた路面電車がまだ凍ったように貼り付いていた。その電車の中には、つり革につかまった黒こげの死体が並んでいる。メガネをかけ、通勤カバンを手にさげた人の、そのままの姿が車中にあった。車中だけではない。路面のそこかしこが死屍累々である。よくも、こんな無惨なことになったものと思う。丁字路の紙屋町交差点を左折し、電車道を西へ向かう。進行方向の左側に産業奨励館の変わり果てた姿があった。それは、現在、原爆ドームと呼ばれるようになった遺跡の原初の姿である。市の中心街であるその周辺は、ほとんどの建物が倒壊消失している。原爆投下の目印になった珍しいT型の相生橋を西へ渡る時、裸足の足が、何度もずるむけの死体に足をとられて滑ってころびそうになった。川には、ぷかりぷかりと腐乱したような死体が浮き沈みしている。招魂社の川べりや左官町の川べりにも、おびただしい数の死体が山積みされていた。土橋からしばらく南下し、観音橋で天満川を渡り、やや行って、あとは南に向かうと三菱観音工場に到達する。難儀ではあったが、務め先の三菱が生きて動いているということが、なんとも嬉しかった。その日以降、三菱の巡回トラックが、母たちのもとには、いつもしっかりと食料を配達してくれたそうである。
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- /産業奨励館の記憶: 昭子母は、小学校低学年の時に産業奨励館を訪問している。「たしか小学校1年生の時に、見学に連れていかれた。たまたま、中国展をやっていて、ろくろ首や纏足(てんそく)を見せられ、ちょっと怖かった思い出がある」というのである。緑色のドーム状の屋根が印象的なモダンな産業奨励館だった。
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- /「産業奨励館」とは、いったい何であったのか?: 2005年8月29日、午後9時〜11:30、TBSで「広島・昭和20年8月6日」という番組が放映された。この番組のために、広島産業奨励館の当時の姿が再現された。非常にメッセージ性の強い番組構成であった。ただ、残念なことに、番組中、「産業奨励館」とは何であったのか、説明がなかった。当時のいわばミニEXPOサイトであったはずなのだけど、その説明がなく、またどんなイベントが開催されていたのか、1ショットの絵的設定もなかった。これは、残念な点である。産業奨励館が何であったかの解説がないと、日本の若い世代には、その位置付けが理解できないのではないか。少なくとも、この作品が海外に紹介される場合、字幕で説明など加えないと、印象が拡散してしまうリスクがあるだろうと思った。ちなみに、この番組のことは、事前に昭子母にも伝えたが、残念ながら「その番組は見とうない」と、昭子母に言われてしまった。体験者の心理は「神様の領域」だ。番組としては力作であったが、足りない点も、同時に明らかだった。
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- /西練兵場のサトウキビ: 紙屋町交差点の北にのびやかに広がる西練兵場は、母にとって楽しい思い出のいっぱい詰まった場所だった。母が小学生のころ、毎年招魂祭には、練兵場に多くの縁日の屋台が並んだ。西練兵場の西端に招魂社(広島護国神社)=産業奨励館のほぼ真北=があったので、その境内の延長のようなスペースとして利用されたらしい。6人の兄弟姉妹が全員連れだって招魂祭の縁日に出かけると、必ず一人1本ずつ長い姿のままのサトウキビを買ってもらって家に帰るのが楽しみだった。その長いのを、短めの筒状に切って輪ゴムでとめて保管しておき、1本ずつ取り出しては、皮をむいて、甘い糖蜜にとろける思いだった。(本補注のここまでが、061105のヒアリング内容) 招魂祭の開催時期について、061107、広島護国神社にメールを送り質問した。即日返事が届いた。現在は「春秋の大祭」と呼んでおり、「春が四月第二日曜日と、秋が十月二十二日に近い日曜日」に開催されるよし。秋の大祭は、次女・竹本桜子の誕生日前後なんだ、ということもわかった。「聞いた話によれば、招魂祭には県内各地から沢山の参拝者があったようで、オートレース、見世物小屋、サーカスや芝居なども催されて県市民の楽しみの大きなお祭だったようです」というメッセージが添えてある。そういえば、昭子母も、小銭を入れて双眼鏡のようなものをのぞくと一定時間だけ楽しめるカラクリ紙芝居のことを口にしていた。
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- /紙屋町交差点で被爆した電車: 今回(061107の補筆改訂時)、「ヒロシマ新聞」を閲覧していて、母が8月9日午後〜8月11日午前のいずれかの時点において紙屋町交差点で目にした死体詰めの全焼全壊電車の写真を確認することができた。これは、暁部隊写真部の河原四儀さんが8月12日に撮影したものという。6日には交差点の少し西寄りにあった電車が、11日にはこの位置まで移動されたと書いてある。すなわち、東方向に移動するとともに、いわゆる路肩に寄せられている。この写真で見るかぎりは、もう車内の死体は搬出されている。おそらく11日の移動時ないしその直前に搬出したのだろう。見たのが11日だったとしたら、同日中に電車の路肩寄せと死体処理が進行したことになる。いずれにせよ、似島には長逗留せず、また袋町から三菱観音工場への挨拶と報告も、ほとんど間髪を入れず実行したように見える。
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- スタッフの住田昭子が弟の看病のために袋町の救護センターに詰めているという情報は、会社のみんなに共有され、母たちのライフラインとして三菱のコーポレートチームが一丸となって機能したようである。被爆時、母は18才であったが、その後、21才まで三菱重工業に籍を置いている。仕事らしい仕事はしなかったようだが、21才まで52円の月給は支給され続けたという。枕崎台風のあと、10月に入り、秋風も立ち始めると、人々は、冬の冷気を想像するようになる。夜の囲いがないと、越冬することはできない。三菱から、社宅提供のオファーがあったのは、そのころである。
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- 10月中に引っ越しができたのか、どうだったか。ともあれ、秋冬の冷気を遮断できる家を、母たちは入手したのである。弟・博が、しみじみ姉・昭子に言ったそうである。「お姉さんは、いっつも人に好かれてきたけえ、扱いがやっぱり違うんじゃねえ」と。母は、少々鼻が高かったであろう。事実、博の姉・昭子への強い思慕と敬愛は生涯まったく変わることがなかった。(叔父・博は1990年代に他界した)
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- ところで、社宅での新生活の周辺には、他の家族の影はない。しばらく視界の中心からははずれていたようだ。工場の近くには、もともと一定数の戸建ての社宅が並んでいた。屋根が飛び、ガラスは破れたが、社宅の多くは火災を免れ原形をとどめていた。秋までに、社員一同の努力で、屋根をかけ、壁のほころびを補修して、雨露をしのげる社宅群が復活していた。その1棟を、母は与えられた。無償供与である。8畳と3畳、それにキッチン、トイレ、風呂がついていた。そこに、母は、自分と15才の弟で移り住み、弟の療養に努めた。生きる気力を養うための仮住まいとしては、天国のような幸運だったに違いない。そこに2人は、翌1946年春ごろまでいたのではないかと、母は回想する。8月6日直後には、五右衛門風呂の鉄の釜だけしか家の焼け跡には残っていなかったのである。
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- 原爆が炸裂した時、母・昭子の母である八重子は、観音の家にいた。爆風によって倒れた壁と柱の間の隙間に体があって、傷を負うことがなかった。すぐ目と鼻の先に大金が置いてあったのだが、その方向から炎があがったため、祖母・八重子は、その虎の子を捨てて、命からがら家をあとにしたという。母・昭子の妹・美代子(2才下=当時16才)は、その時、やはり観音の家の2階の窓べり近くにいたらしい。が、爆風は家を圧し、美代子の体はもんどりうって庭の防火水槽の中へまっさかさに飛ばされた。これらの様子は、母・昭子が、あとで八重子や美代子からヒアリングした内容である。しかし、防火水槽といっても、石をくり抜いた小型のものであったなら、頭蓋を折って即死したはずだ。おそらくは少し大きめの木製の防火水槽だったのではないか、と推定しないわけにはいかない。かつ、美代子叔母には火傷がなかったので、爆心の反対側、南西サイドの窓べりにいたものと考えられる。
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- 袋町国民学校に、妹・美代子と母・八重子は、8月10日を過ぎて、しばらくしてから顔を出したらしい。そのころから、母・昭子の2人についての記憶がよみがえるのである。祖母・八重子は、息子・博の容態が当然に気がかりであったが、当座の金策にも動かなければならない。だから、袋町救護センターに顔を出しても、すぐにどこかへと姿を消すのであった。そんなことが、しばらく続いた、と母・昭子は回顧している。
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- ### 観音本町1丁目:
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- 「観音本町1丁目の焼け跡に、家を建てよう!」 まずは、6畳1間でもいい。雨露がしのげて、仮設トイレがあって、水のまかないがあれば・・ 1946年春、傷が癒え始めていた15才(あるいは、もう16才になっていたであろうか)の住田博少年は、気力の回復とともに、家を建て直そう、と言い始めていた。4人姉妹に2人兄弟。男手は、博の他には、まだ11才か12才の弟がひとりいるきりであった。
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- /観音本町1丁目: 現在の地番表示では、観音本町1丁目13-13。国道2号線に面している。
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- やがて、みんなで力を合わせて仮普請の家ができあがった。7人の家族が、また全員集まり、住田家の再構築に気持ちを向けた。ゆっくり、ゆっくりとした歩みが、春の広島で時を刻み始めた。家族のためにお金を作るため、母と祖母が汽車で岡山まで遠出して、リュックいっぱいの蕎麦屑を買ってきて団子を作り売りするようなこともしたという。外傷が癒えたとはいえ、体力の芯を焼かれていた博は、しかし、しばらくすると結核を発症した。(長命を得なかった遠因でもある)
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- 21才過ぎ、三菱をやめた母のもとに、山陰は益田市の方から養女に取りたいという話が舞い込んだらしい。家族を養うお金を支給するからという交換条件が提示されたのだ。しかし、行ってお勤めしてみたら、聞いていたのとはまるで違う話だった。半年で逃げて帰ってきたそうである。
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- 母より2才下の美代子は、優れた社交性を持っていた。母曰く、「気がついたら家出しとる」、そういう奔放なところのある人だった。少し商才もあって、家出して次に家に帰ってきたら、必ずなにがしかの金をつかんでいた。どこかで商売をしてくるのか、貢ぐ男を見つけてくるのか。いずれであれ、鳶(とんび)が帰ってきたら、その脚には必ず金があった。
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- ある時、なかでも大きなお金をコウノトリのように運んで帰ってきたことがある。それを原資に、観音本町の家を少し拡張して美容院を営むようになった。母が23〜4才のころであったか。相前後して、特攻で散華する予定だった(終戦時、兵庫県加古川の陸軍の中隊にいた=空五三〇戦隊=同じ隊に巨人軍の青田昇氏がいたという)が、その予定の直前に戦争の方から身をひいてくれて命を拾った父・竹本義文と出会う。義文が2才年上だった。私・竹本隆は、その観音本町1丁目の家で母25才の時に生まれた。1952年のこと。7
years after the A-bomb
である。住田八重子にとっては初孫である。私は、住田家再生のシンボル的存在となった。また同時に、佐伯郡湯来町大字下2911番地(現在は、広島市佐伯区)に住まう竹本三次郎とハツノにとっても、初孫となった。義文父は四男であったが、長兄、次兄は、中国大陸戦線で戦死、三男と次女(妹)は幼くして病死していた。戦後まで生き延びたのは、6人中わずかに2人、四男と長女(妹)だけであった。生まれて2年ほどは、私の遊び場は、美容院の椅子の周辺だった。遊び相手は、母を含めてみんな美容師さんたちである。美容師の白いうわっぱりを着た母に抱かれた赤子時代の私の、まぶしいような写真が残されている。
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